塩づくりの歴史をさらに詳しく

行徳の歴史を知るうえで、欠かせないのが塩づくりの歴史です。

江戸時代までの話をさらに詳しくまとめてみました。


製塩で栄えた寺町

行徳ふれあい伝承館展示年表より
行徳ふれあい伝承館展示年表より

東京湾に面した行徳では古くから塩づくりが行われてきました。その始まりは奈良時代の頃からともいわれ、遠浅の干潟を利用して自家用の塩をつくっていたようです。平安時代末期には、本行徳中洲(今の東京都江戸川区)の神明社に、神事に使う塩を焼いて納めていたといいます。

 

戦国時代には、行徳七浜と呼ばれる、塩づくりで生計を立てる7つの村(稲荷木、大和田、田尻、高谷、河原、妙典、本行徳)があり、行徳は江戸湾岸における最大の塩の生産地になっていました。

この地を支配していた小田原の北条氏に、塩を年貢として納めていました。

 

当時は本行徳の南に江戸川(現:旧江戸川)の河口があり、押切と伊勢宿は川の底で、関ケ島は島でした。欠真間は列島のような地形をなし、新井は島のような状態で孤立していました。

本行徳より南の村は、江戸川の真水が入るため塩分が薄く、年貢を納めるほどの塩は生産できませんでした。

行徳七浜の中心地は河原村で、関東奥地の要衝の地である岩槻への塩の道の出発点として栄えていました。

 

塩浜では日照りが続けばいくらでも塩を生産することができました。

塩づくりは米を作るより20倍ともいわれるほどの利益が出たため、塩田の発展とともに多くの人が集まり、経済的にも豊かな人たちが増えました。

戦国時代の半ばから江戸時代の初めにかけて、本行徳を中心とした塩田の近くに33もの寺が創建されたのは、村の人々の信心深さに加え、お布施で寺を支える余裕のある人が多かったことを示しています。江戸時代に入る頃には、「行徳千軒寺百軒」といわれるほどの寺町がほぼできあがっていました。

ことわざの背景に行徳の塩?

 塩に関連することわざに「敵に塩を送る」というものがあります。苦境にある敵を助けることを意味しますが、これは戦国時代、今川と北条に塩の交易を止められ、塩不足で困窮した武田信玄に、敵対関係にあった上杉謙信が塩を送ったという逸話に由来するといわれています。

 

この背景には、実は行徳の塩も関係しているのだとか。

というのも、この時代、南関東一帯を支配していたのが小田原の北条氏。1567年に武田信玄と戦ったときに塩留めを行い武田軍を苦しめましたが、そのときの塩が行徳の塩だったというのです。

 

敵に送った塩は越後の塩。行徳の塩はこのことわざとは直接の関係はありませんが、有名な逸話の背景に行徳の塩が見え隠れしていると思うと、ことわざの見方もちょっと変わってきますね。


徳川の「天領」として手厚く保護

1590年に豊臣秀吉の小田原征伐で北条氏が滅びると、徳川家康は江戸城に入り北条氏の旧領を治めます。

塩は戦国の世にあっては重要な軍需物資で、兵糧の確保は戦の勝敗を左右するほど大切なものでした。

家康は江戸城に近い行徳の塩を軍用第一と考え、すぐに行徳を直轄領とし、突貫工事で小名木川(東京都江東区)を掘らせて翌年から船で行徳の塩を運ばせました。

 

1600年に家康が関ヶ原の戦いに勝ち、江戸に幕府を開くと、江戸は小さな田舎城下町から事実上日本の首都となり、急速に発展しました。

これに伴い、行徳塩業の地位も一層高まりました。

幕府は新しい塩浜を開発するために、家康から家光までの3代にわたり巨額の手当金を与え、公共工事を行いました。また塩年貢を優遇したり、自然災害で堤防や塩田が壊れるとその修復費用を賄うなど、手厚い保護を行い、行徳塩業の発展に力を入れました。

行徳領の中心地は本行徳へ

3代将軍家光(在職:1623年 - 1651年)は家康と秀忠の事業を引き継ぎ、江戸川(現:旧江戸川)の河口だった押切と伊勢宿を閉め切り、川の流れを現在のような浦安方面に変え、塩田を広げました(1625年以前と推定)

これにより、行徳七浜は十六浜に増え(増えたのは下新宿、関ケ島、伊勢宿、押切、湊、前野、欠真間、新井、当代島。前野村は今の江戸川区の村)、塩浜の中心は本行徳に位置することになりました。

1635年には神明社を本行徳中洲の地から現在地の本行徳一丁目に遷座し、行徳塩浜十五ケ村(前野村を除く)の総鎮守としました。

(この神明社が、行徳五ヶ町の祭りの宮元です。)

 

1629年に新川(東京都江戸川区)開削と小名木川の拡幅が完成。これらを合わせて行徳川と呼び、日本橋小網町三丁目行徳河岸と本行徳新河岸(今の常夜灯公園のところ)とが約12.6km、3~6時間の航路で結ばれました。

この航路は当初は誰でも運航できましたが、1632年に本行徳村が独占運航の許可を勝ち取ると、本行徳村の運航する船しか営業できなくなりました。

これにより、本行徳村は幕府に職業と収入を保護され、多くの人や船が出入りする港町としてますます栄えていきました。

江戸と行徳を結んだ航路。日本橋行徳河岸は、現在の首都高7号線箱崎ジャンクションの真下に位置していました
江戸と行徳を結んだ航路。日本橋行徳河岸は、現在の首都高7号線箱崎ジャンクションの真下に位置していました

同年(1632年)に行われた最初の検地による塩浜年貢は、江戸時代を通じて最高の額となり、この頃が行徳塩業の最盛期となりました。

行徳塩業の衰退

行徳の塩は、江戸の初期から元禄(1688~1703)の頃までは、幕府にとっても江戸市民にとっても欠かせないものでした。

しかし江戸の人口が増えてくると、行徳の塩だけではとうてい足りなくなり、寛永(1624~43)の頃から江戸に流通するようになった十州塩(瀬戸内海でとれた大量生産の安い塩)が、行徳の塩の地位を脅かすようになりました。

 

行徳の塩は煮詰めて苦汁を少なくした真塩で、質の上では勝っていましたが、一反あたりの生産高は低く、また安定した気候の瀬戸内海に比べ、行徳は川の氾濫や津波、長雨、冷害など自然災害も多く、効率が悪く手がかかる生産地でした。

幕府の保護政策は4代将軍家綱(在職:1651年 - 1680年)以降緩み、行徳の村民たちの自己負担も次第に増えていきました。

また塩浜には寿命(50年~70年もすると塩気の湧かない荒浜になる)もあり、寿命を迎えた行徳の塩浜は次々と農耕地に転換されていきました。

 

こうして行徳の塩は元禄以降衰退の一途をたどりましたが、それでも明治維新まで幕府の保護は続けられ、行徳の村民たちは毎日1石(塩俵で2俵分)を江戸城へ運び続けました。


錦絵に描かれた当時の行徳

行徳の歴史に触れたうえで見ると、さらに興味深く楽しめる錦絵を最後に紹介しておきたいと思います。

 

江戸時代後期から明治にかけて活躍した浮世絵師・歌川貞秀が1868年に描いた「利根川東岸弌覧」で、現在の東京都江戸川区の上空から市川市方面を俯瞰した6枚続きの錦絵です。

 

そのうちの右側3枚に、当時の行徳の様子が描かれています。ぜひクリックして拡大して見てみてください。


歌川貞秀「利根川東岸弌覧」(1868年)の一部
歌川貞秀「利根川東岸弌覧」(1868年)の一部

 

手前の土地が現在の江戸川区の篠崎から一之江にかけて。

中央に流れているのが江戸川(現:旧江戸川)で、たくさんの船が往来する様子も描かれています。

対岸の土地が行徳。その奥には東京湾の海岸線も迫り、行徳が江戸川(現:旧江戸川)と東京湾にはさまれた細長い地形であったこと、そして市川や八幡、船橋などと陸続きであったこともわかります。

 

 

本行徳には新河岸(現:常夜灯公園)と常夜灯が描かれ、この辺りが行徳の中心地であったことが見てとれます。徳願寺が大きく強調して描かれているのも特徴的です。

 

塩浜から立ち上る塩焼きの煙や、行徳街道(旧道)の関ケ島のクランク道路、今井の渡し(現:今井橋付近)など、地元民にとっては見れば見るほど楽しめる作品だと思います。