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後藤直光に関する情報②(代々の詳細と堂宮彫刻の主な作品)

 (2025/1/30  更新)

 

後藤直光(茂助)の祖について

前回の投稿後、後藤茂助家系図の複写を手に入れました。

妙典センタービルに展示されている系図の、中抜けの部分が記載されているものです。

 

そこには、後藤茂助の祖が

正義 磯辺杢齋二男

   後藤直之助 東都本所住

であると書かれていました。

 

前回の投稿で「後藤直光の祖は後藤支流の磯辺家・後藤猶之助藤原正義ではないか」と推察しましたが、その推察の裏が取れたことになります。

 

ちなみに、この猶之助(直之助)は、磯辺家でありながら同じ後藤支流の長坂家・長坂猪之助友雅の元で腕を磨いていたようです(同じ法恩寺橋住になっている為)。

以前、江戸彫工を研究している方々が直光は長坂家が祖?と推定していたのは、ここに理由があります。

 

 

代々の詳細

前回の投稿で不詳とした代々の詳細も、その後の調べで判明してきました。

※この表の年号は志ん一さんによる仮説です。

 当記事後半に、この表の改訂版がありますので、詳細はそちらをご覧ください。

 

長坂猪之助友雅が寛政・享和頃の人なので、その頃後藤猶之助正義の下で腕を磨いていたという仮説での年号です。

平均寿命を考慮し、初代・二世は約20年、三世・四世は25年、五世・六世は35年を考えています。

世襲の間には病に倒れる事もあるので、これはあくまでおおよそです。

仮に自分の子ども位の腕の良い弟子に技術を継承させようと思うと、25年位が限界です。

彫刻師は、万世一系ではなく、養子もあり得ます。

 

四世頃までは、茂助という雅号の墨書きや刻銘が多いです。

五世以降、直光という雅号を用いるようになります(堂宮彫刻師から神輿師への転換期)。

後藤茂助中心の彫工集団から、後藤直光という総合請負会社に代わってくる。

この頃から神輿の製作が増え始めた事により、木地師、塗師、錺師、彫刻師を雇い、後藤直光という会社組織にして堂宮彫刻と同時に、神輿製作にシフトしていったんだと思います。

 

 

堂宮彫刻の主な作品   

●四世茂助 置友

安政6(1859)年 萩原鳥見神社本殿 印旛郡印旛町萩原

彫物師 茂助 同茂助倅 茂吉 ※印旛村史

明治10(1877)年 八坂神社本殿 東葛飾郡沼南町若白毛

彫物師 渋谷茂助置友 墨書き

 

●五世茂助 茂吉

明治34(1904)年 原木山妙行寺・本堂 市川市原木

推測 年代は、本堂擬宝珠刻字

明治37(1907)年 時平神社本殿 八千代市萱田町

行徳町彫刻師後藤直光 向拝竜裏「直光」刻銘

明治42(1912)年 龍神社 船橋市海神

推測 

 

●六世茂助 三吉

大正8(1919)年 原木山妙行寺・山門 市川市原木

彫刻師後藤直光 刻銘

大正14(1925)年 尾鷲神社本殿 千葉市花見川区検見川町

彫刻師後藤直光 刻銘

大正14(1925)年 釈迦堂 野田市野田

彫刻師後藤直光 刻銘

大正14(1925)年 妙栄峯妙好寺 市川市妙典

彫刻師後藤直光 刻銘

大正14(1925)年 海厳山徳願寺 市川市妙典 

彫工 後藤直光 刻銘

 

 

以上、江戸彫工まとめサイト(現在は閉鎖)を参考にし、自分なりに考察してみました。

系図に書かれている三世までの時代は、未だ解明されず…。(千葉県旭市 志ん一さん) 


こんなに詳しい知識をお持ちの志ん一さんとは、いったい何者?と思われる方も多いと思いますので、少しご紹介を。

志ん一さんは旭市の方ですが、地元の神社の神輿を始め、近隣にも後藤神輿がいくつも存在することから、幼少の頃から後藤神輿を見て育ち、大ファンになったとのこと。大変研究熱心な方で、行徳の神輿関係者にも通じていらっしゃいます。

こちらの投稿でもご紹介したように、後藤神輿店の2代目の看板も所有されています。

行徳の誇りである神輿のことをこんなに愛してくださる方がいらっしゃるというのは、行徳民としてもうれしいことですよね。(2021/8/26  WG)

 


この記事について、彫刻師の研究をされているという吉田 公明さんからご意見が寄せられました。

以下にご紹介いたします。

 

「後藤直光の祖」と推察される後藤支流の磯辺家・後藤猶之助藤原正義(別称は正寿、直次郎、杢々斉)は、

・磯辺家の分家 「初代磯辺儀兵衛」隆顕(文政4年(1821)没)の次男

・文化7年(1810)に彫工左氏後藤氏世系図を作成した後藤本流三代後藤惣八正常(日本橋 住、行年76歳)の元で修行した

・本所(法恩寺橋 住)の長坂猪之助友雅(本苗は篠沼)家へ婿入りするも、弘化3年(1846)若死、推定46歳

とされています。

 

また、後藤本流三代 惣八正常の門人に以下の磯辺家の三兄弟がいたと伝えられています。

・長男 磯辺隆信 二代目磯辺儀兵衛(明治11年没)

・次男 磯辺正寿(別称は正義、直次郎、杢々斉)

・三男 磯辺信経(文化2年(1805)生まれ~明治13年(1880)没)

出典:『社寺の彫物を訪ねて: 近世社寺装飾彫刻画題考』 関忠次 著(1991)

 

後藤直光に関する情報①(系譜)」の後藤直光の系図には、磯辺(後藤)正義を師匠として「下総行徳住人 一世 後藤直義~二世 直義の子 直知~三世 直光」と記されていますが、これには疑問を感じています。

というのは、上記の三兄弟のうち、三男の信経については生まれた年がわかっており、そこから類推すると正義は享和元年(1801)ごろの生まれとなり、10歳で修行に入り、文政3年(1820)ごろに年季明けとなっていると推測されます。

この頃、師匠と弟子の年齢差は〝波の伊八〟を例にとっても一回りの差はよくあることで、後藤本流三代惣八正常が健在だったのか、あるいは没していて兄弟子の長坂猪之助友雅の元に引き継がれたのかは不詳ですが、一世後藤直義の師匠が後藤正義とするならば、後藤直義の修行入りは文政5年(1822)ごろ~年季明けは天保4年(1833)ごろとなるはずです。

 

とすると、「一世直義は寛政(1789~1801)・享和(1801~1804)ごろの人」という仮説は、年代が合わないことになります。整合性の取れない内容は、一人歩きしないよう仮説であっても取り下げるべきではないでしょうか。

また二世 直知~三世 直光と四世 渋谷茂助置友の間が混み合いすぎていますが、欠史二世あるいは僭称ではないでしょうか。

私は渋谷家の一世~三世の説が世に出なければ、「後藤直光(初代)~後藤直光(二代) ~三代目後藤直光(三吉氏)」を取り上げさせていただいております。

 

そのほか、浅子周慶は初代~十六代と冠していますが、後藤直光は一世~二世~三世…という呼称に違和感を覚えます。

一世~二世~三世・・・は行徳で定着してしまっているのではないでしょうか。 (千葉県船橋市 吉田公明さん)


貴重なご意見をありがとうございます。

 

志ん一さんにご相談させていただきながら、代々の詳細をまとめ直しました。

以下を改訂版として更新したいと思います。

 

表の修正ポイントは以下になります。

➀初代~三代までの年号について

志ん一さんが最初の表に書かれた年号は、あくまでも仮説です。

吉田さんのご指摘のとおり、他の彫工の時代とすり合わせると初代~三代までの年号に矛盾が生じるようですので、推測の部分は削除しました。

後藤神輿店の系図に記載されている初代~三代までの内容についてはそのまま残し、「系図に記載はあるが詳細は不明」と明記しました。

 

➁後藤直光の代の数え方について

後藤直光の初代~三代までは作品も確認できず、詳細は不明とのこと。

あるいは僭称があるのかもしれませんが、後藤神輿店の系図に三代までの記載があるのは事実です。これを無視することはできないと思います。

また、福太郎氏と和夫氏がそれぞれ「七代目」「八代目」を名乗った文章が残されています。

(「市川の思い出」(市川毎日新聞社・1959)の中の「行徳と神輿」/七代目後藤直光

   「房総のふるさと 郷土の伝統を守る人々」(多田屋・1972)の中の「みこし作り八代目の意気地」/八代目後藤直光  )

吉田さんがおっしゃるように彫刻の世界では三吉氏を三代目とする説もあるようですが、そうしますとこれらの明確なエビデンスと整合性が取れなくなるので、当サイトは後藤神輿店としての意思を尊重しそのまま後藤八代として記載したいと思います。

四代までは茂助、五代以降に直光の名を使ったようですので、今回それも表に反映させました。

 

③「〇世」という呼び方について

「〇世」という呼び方は「宮神輿名鑑」(原義郎著・1997)で使われているそうで、それが元になったのではないかとのこと。

行徳ふれあい伝承館の展示や「行徳の歴史と神輿と祭り」(行徳まちづくり協議会・2022)でも「○世」という呼び方で表記されていますので、行徳ではこれが通っているのかもしれません。

しかし吉田さんご指摘のとおり、浅子周慶は「〇代」を使っていますし、「○代目」と数える方が一般的なようにも感じられます。

上記のように福太郎氏と和夫氏が「七代」「八代」を名乗った文章も残されていますので、表の表記を「〇世」→「〇代」に変えました。

 

そのほか、今回新たに追記した注釈もあり、吉田さんのご意見をきっかけに、後藤代々の詳細がより真実に近づき、明確になったのではないかと思います。

ご意見をいただいた吉田さん、そして多大なるご協力をいただいた志ん一さんに心から感謝いたします。

ありがとうございました。

 

なお、吉田さんはFacebookで後藤直光や浅子周慶などさまざまな彫刻作品を考察されています。

ご興味のある方のぞいてみてください。(2025/1/30 WG)

 

 

 

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コメント: 4
  • #1

    直井豊 (水曜日, 08 12月 2021 01:54)

    五反田 氷川神社の神輿は、
    屋根の彫刻の素晴らしさ、
    神輿の大きさ、形、
    どれをとっても、他に類を見ない出来栄えです。
    ここ地元の鳶職、桐若によって、
    今までの神輿の馬を持っていき、
    これにあう、神輿を作ってとオーダーしたところ、予想より大きな神輿が出来てしまい、管理しきれないと判断した、桐若睦が、神社へ奉納されたのが始まりらしいです。
    ですから、今でも、町会じゃないのに、桐若の鳶職の自宅前だけ、
    神輿をさします。

    沢山後藤直光を冠した神輿はありますが、作りが別格です。

  • #2

    わっしょい!行徳 (水曜日, 08 12月 2021 21:48)

    直井さま、ご投稿ありがとうございます。
    画像を検索して拝見しましたが、すごそうですね。

    行徳の神輿の神輿自慢は、行徳の人たちにとっても誇らしいお話です。
    ぜひ詳しいご紹介や、そちらの地元での様子などを、お写真と共にあらためてご投稿いただけるとうれしいです。

  • #3

    田中愛子 (金曜日, 31 1月 2025 17:37)

    神輿に関して又社寺の彫刻など様々な技術を尊び研究なさる方々が居られる事も改めて感動してこの調査した本文拝見させていただきました。それには、わっしょい の存在意義があっての事で行徳という町に育ち根付いた技術集団が今何故かと記録が残されて行くことに感動感謝します。

  • #4

    わっしょい!行徳 (土曜日, 01 2月 2025 02:12)

    愛子さん、いつもコメントありがとうございます。
    行徳の誇る後藤直光について、専門的知識を持つ方々から深く学ばせていただき、大変感謝しております。
    さまざまな意見が集まることで、情報がよりブラッシュアップしていければ、サイト管理者としてこんなにうれしいことはありません。

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