神社 | 熊野神社 |
地域 | 千葉県市川市 新井、島尻、広尾、南行徳 |
周期 | 4年に1度 |
日程 | 祭礼日(10月15日)前の金・土・日 |
次回 | 2020年、2021年、2022年中止 |
新井にある熊野神社の4年に1度の祭礼です。
祭りの歴史は古いものの、神輿の渡御が行われるようになったのは、昭和20年代から。
当時の新井が、昭和40年代に行われた土地区画整理事業やその後の住居表示変更により新井、島尻、広尾、南行徳に分割・町名変更されたため、現在は4つの町の祭りとなっています。
範囲が広いため渡御は2日にわたり行われ、宵宮を合わせると3日間の祭りとなっています。
担ぎ方は江戸前で、行徳の多くの祭りのような白装束は着用しません。
江戸時代に行徳の中心地であった本行徳から見ると、新井村は地理的に「辺境の地」であったため、独自の祭礼の形をとったといわれています。
「昔からの伝統がないので、これから新しく伝統を作る」という考えのもと、担ぎ方も衣装も掛け声も自由とし、他地域や女性の担ぎ手もウェルカムとしています。
それでも要所要所で「行徳揉み」をはさむところは、行徳の祭りならでは。揉み方はお隣の浦安に似た部分もあり、祭りの見どころでもあります。
新井(あらい):昔、欠真間村から移住した人たちが、飲料にする真水がなかったので新しく井戸を掘ったところ、真水が湧き出したことから、村名となったそうです。
島尻(しまじり):住居表示変更(昭和52年)で生まれた町名。元は新井の字名。
広尾(ひろお):土地区画整理(昭和48年)で生まれた町名。元は新井の字名。
南行徳(みなみぎょうとく):土地区画整理(昭和48年)で生まれた町名。元は新井と欠真間で、旧南行徳町の町名を残した。
※空欄は現在調査中です。判明したところから埋めていきます。
詳細をご存知の方がいらっしゃいましたら、こちらよりご連絡いただければ幸いです。
※スケジュールは過去の祭りのもので、次回開催時は変わることがあります。
新井の祭りでは、戦前は神輿を担いでいませんでした。
神輿を担ぎ始めたのは戦後の昭和20年代。御輿を所有していなかったので、レンタルして神社神輿としていました。
担ぎ手の衣装は白の半股引、白シャツ、白半纏(赤で「祭」のプリント)、頭には白手ぬぐい、と全身白の人もいれば、浴衣を着ている人、女性物の腰巻を巻いている人など、自由でした。
祭りの開催は3年に1度でした。
当時は島尻には1軒しか家がなく、「一軒家」という屋号で呼ばれていました。
広尾には水田が広がるのみで、誰も住んでいませんでした。
道も無かったため、渡御は今の新井1丁目の京成バス通りのみを行き来していました。
熊野神社に立派な獅子頭があり、それを5~6人で担いで子どもたちが胴幕をあおぎ、新井の村一軒一軒を全部まわっておひねりをもらっていました。
家々は、獅子頭が土足で上がれるようにむしろやござを敷いてこれを出迎えたそうです。
昭和20年代以前の祭りでは、熊野神社隣の延命寺の墓地の中の空き地に見世物小屋を作って、旅役者を招いて演じさせていました。
また、神社本殿の下に保管してある木材を組み立てて山車を作り、新井の人たちが「わっしょい」の掛け声で綱を引きました。
山車の大きさはバスより人回り小さいくらい。2階建てで、1段目は笛と太鼓が座り、2段目はおしゃらく(歌と踊りの郷土芸能)が演じられていました。
昭和40年代になり電線に引っかかるようになって廃止になりましたが、行徳では新井と欠真間だけが、昭和30年代までこのような山車屋台を引いてたそうです。
※当時の写真をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ぜひ当サイトで紹介させていただきたいと思います。こちらからご連絡いただければ幸いです。
担ぎ方は男女混合の江戸前担ぎで、笛や手拍子も入りにぎやかです。
掛け声は「そいや~」「えいや」「ほいや」など。
要所要所に行徳揉みもはさみますが、「地すり」のときの担ぎ手の向きなど、ほかの行徳揉みとは異なる点があります。
さまざまな祭り同好会の担ぎ手が集まるので、半纏もさまざまです。
担ぎ手の人数に決まりはありません。
担ぎ手団体
※担ぎ手団体についての詳細はこちらをご覧ください。
新井 熊野神社 伊邪那美會
発足:2017年(平成29年)3月25日
会員数:31名(2022年5月現在)
前回の大祭後に作られた会で、2020年の祭礼が中止となったため、まだ会としての祭礼デビューは果たせていません。
次回の祭礼では渡御の仕切りを行うそうです。
【祭神】
伊邪那美大神
【創建】
元和元(1615)年
【本務社】
船橋大神宮