神社 |
八幡神社 |
地域 | 千葉県市川市 妙典一丁目、二丁目 |
周期 | 3年に1度 |
日程 | 祭礼日(10月15日)前の土・日 |
次回 | 2026年 |
妙典一丁目にある八幡神社の3年に1度の大祭です。
祭りの名前は「上妙典」ですが、「上妙典」は旧・住居表示で、今の妙典一丁目と二丁目が氏子地域になります。
昭和50年ごろまでは、お米の豊作を祝い数年に1度神輿の渡御が行われていましたが、担ぎ手不足や時代の変化により平成5年以降渡御が中断されていました。
これを復活させようと、行徳まつりの役員でもある地元青年会のメンバーが働きかけ、平成23年に神社近くの元新田公園で神輿パフォーマンスのイベントを開催。
以後3年ごとに祭礼で渡御が行われています。
神輿が重いのがこの祭りの特徴で、その重さゆえ、行徳揉みでは放り受けを行いません。
上妙典(かみみょうでん):妙典とは法華経のこと。江戸時代、この地域の住民はすべて日蓮宗の信者でした。
上妙典は旧名で、今の妙典一丁目、二丁目を指します。
神社神輿(宮神輿)
製作者 |
地元宮大工・宍倉寅吉氏、宍倉徳太郎氏 (装飾作者 後藤直光) |
製作年 |
昭和3年9月 |
台輪寸法 | 四尺一寸 |
●行徳で一番重い神輿
地元で腕利きの宮大工・宍倉寅吉氏と甥の宍倉徳太郎氏が、葛飾八幡宮の神輿を見本として(注1)本体を製作し、装飾は6代目後藤直光が手がけました。
「神輿は重いほどよい」という考えから、木材は特に厚い欅材が使われており、重さは推定1トン。神輿屋の神輿は担ぎやすいように考えて作られるものですが、この神輿は「これだけ重いものを担いでみせろ」という心意気のもと、台座の大きさの割にあえて重く作られているので、重心が不安定で余計に担ぐのが難しいそうです。
行徳一重い「千貫神輿」といわれており、担ぎ手たちも「ほかとは重さが全然違う」と口を揃えます。
平成元年(1989年)11月に今の形状に大修復されました。
令和2年(2020年)に予定されていた大祭は、新型コロナウィルスの影響で中止となりましたが、このときに神輿の飾り紐が新調されました。神輿のサイズに合った太い網掛けの紐になり、神輿をますます引き立たせています。ぜひ過去の祭り写真と見比べてみてください。
(注1)地元ではこの神輿は「葛飾八幡宮の神輿を見本として作られた」と伝えられているそうですが、葛飾八幡宮の大神輿の製作年は昭和26年で、上妙典の神輿の方が古いことになります。
この件につきまして、こちらの記事で深堀りし、その後謎が判明しました。
併せてご覧ください。
町会神輿(中神輿)
製作者 |
後藤直光 |
製作年 |
不詳 |
台輪寸法 | 二尺 |
元は神田明神に納められていた神輿。
所有者の篠田喜義氏のご好意により市川市行徳ふれあい伝承館に展示されていましたが、令和元年秋に妙典一・二丁目自治会に寄贈され、町会神輿(中神輿)となりました。
寄贈先を神社ではなく自治会としたのは、イベントなどでも神輿を気軽に出せるようにするためとのこと。
令和3年秋に神社の神輿蔵に移されました。
この中神輿は、令和4年(2022年)の妙典まつりで初めて妙典の町を巡行しました。
祭礼には令和5年に初めて登場しました。
行徳のほとんどの祭礼では、女性が神輿を担ぐのはご法度とされてきましたが、この神輿が新たに加わったことにより、上妙典では女性も担げるようになり、上妙典の祭りの歴史に新たな1ページが刻まれました。
子ども神輿
製作者 |
中台祐信 |
製作年 |
平成3年10月 |
台輪寸法 | 一尺三寸 |
行徳小出身でその後横須賀に引っ越した中村陽三氏が、「地元に恩返しをしたい」と同級生に持ち掛け、平成3年に寄贈されたそうです。
神輿を収納する際は、本体にさらしを巻きます。
祭りのシーズンが終わると、このようにカバーもかけて大切に保管されています。
※スケジュールは当日の状況によりずれることがあります。時間はあくまでも目安とお考え下さい。
※終了しました。次回は2026年の予定です。
17:00~ 御霊遷し
お囃子の奉納があります。
模擬店はありません。
婦人会の模擬店が出ます。
9:30ごろ~ 宮出し
10:10~10:30 地境式
午前中は中神輿と子ども神輿と山車が妙典一丁目・二丁目町内を巡行します。
午後は大神輿が出ます。大神輿は旧成田街道(オアシス妙典が面する通り)の1本道のみを往復します。
主な休憩ポイントと時間は以下のとおりです。
10:30~13:00 中神輿、子ども神輿、山車
10:30オアシス妙典→11:05田島紙工業11:25→11:35セブンイレブン市川妙典二丁目店12:05→12:15田島紙工業12:40→12:50オアシス妙典
14:00~16:00 大神輿(宮神輿)
14:00オアシス妙典→15:15オアシス妙典15:40→15:55オアシス妙典(担ぎ棒を4点棒から2点棒に変更)
※5枚目の中神輿の画像は2022年の妙典まつりのときのものです。
渡御の際は、初めて通る道には「お清めの塩」と「榊」が先導し、神輿が通る道を塩で清めお祓いしながら進みます。
一度通った道には行いません(今回の祭りでは、午後の大神輿渡御では行いません)。
神社境内と下妙典との地境、土手近くの交差点に盛り砂が用意され、担ぎ手の足元に撒かれます。
これは「お清めの砂」と呼ばれるもので、担ぎ手たちが汗をかくと漆塗りの担ぎ棒から手がすべりやすくなるため、各自が手のひらにつけてすべらないようにするためのものだそうです。
16:00~16:20 中神輿 宮入り
16:25~16:45 大神輿 宮入り
17:00ごろ 御霊還し
上妙典の神輿は重いので、町内渡御の際は担ぎ棒を2本から6本(4点棒)に増やし、担ぎ手の人数を増やしますが、それでもその重さはダントツのようで、担ぎ手たちをフーフー言わせています。
そんな重量級神輿ですが、昭和20~30年代ごろには、血気盛んな担ぎ手たちが、2点棒のまま馬(神輿を置く台)も持たずに、昔の行徳橋を越えて一本松(稲荷木)まで行って帰ってきたというエピソードもあるそうです。昔の人の力の強さには驚かされますね。 |
神社の参道が狭く、大神輿は2点棒でしか通れないため、宮出し・宮入り前後は2点棒で担ぎます。
そのときの担ぎ手の人数は前5人、胴3人、後ろ5人で左右合わせて26人です。
宮出し後は、担ぎ棒を4点棒に増やします。
以前は左右外側に前3人、胴3人、後ろ3人ずつ、左右内側に前2人、胴3人、後ろ2人ずつで、4本合わせて32人で担いでいましたが、最近では左右内側には前4人、胴2人、後ろ4人入るようになり、4本合わせて38人前後で担いでいます。
また担ぎ手の負担を減らすため、横棒にも2人入ったり、逆に地すりのときは狭くなるので数人抜けたりと、状況を見ながら人数を調整しているそうです。
交代要員を考えるとその3倍の人数が必要とされるため、100人以上の担ぎ手が必要となります。
担ぎ手の衣装は伝統の白装束で、掛け声は「わっしょい」です。
神輿が重いため、行徳揉みでは唯一放り受けを行いません。過去には行われたこともあったようですが、けが人が出て禁止となったそうです。
昔の揉み方 |
今の「地すり」は1回転ですが、昔は2~3回転したそうです。
また揉みの順番は、最初が「さし」で、次に「地すり」を行いますが、昔は「地すり」が先だったとか。 地面すれすれの地すりから一気に上まで持ち上げて高くさすのは、大変な力を要するため、足腰や腕力の強かった昔の人ならではの揉み方だったそうです。 |
■担ぎ手の衣装
※お囃子についての詳細はこちらをご覧ください。
2023年の祭礼では、オアシス妙典が御仮屋となりました。
オアシス妙典は2022年にオープンした一棟貸しのレンタルスペースで、オーナーは中神輿の寄贈者でもある篠田喜義氏です。
ご存じの方も多いかと思いますが、篠田家は妙典の歴史に欠かせない家系で、その名前は上妙典八幡神社や妙好寺の案内板にも出ています。
戦国時代に市川市北部の国府台で、里見氏と小田原北条氏との間で2度にわたる合戦(国府台合戦)がありました。
篠田家は千葉氏の家臣で、永禄7年(1564)の合戦で小田原北条氏に味方して勝利したため、その恩賞として河原の地が与えられました。
その後河原を分割して妙典とし、土地の開発を進めたといい、いわば「妙典の祖」ともいえる家系になります。
(ちなみに、妙典の水田や塩田の開拓にはあの宮本武蔵も参加していたと伝えられています。)
篠田喜義氏はその家系(分家)で、現在もさまざまな形でまちの発展に尽力されています。
当サイトでも紹介している妙典まつりもその一つ。祭礼が無い妙典の新しい街(妙典四~六丁目)でも、子どもたちのふるさとの思い出となる祭りを行い街の活性化を図りたいと、2006年にイベントをスタートさせました。
またオアシス妙典は、昭和初期に造られた貴重な古民家をリノベーションして残すとともに、地域の人に使ってもらいたいとの思いでオープンされました。
オアシス妙典が御仮屋となった背景には、そういった篠田氏の思いと長い歴史があります。
2023年の祭礼時にはマルシェが開催され、模擬店やキッチンカーが出て多くの人を集め、祭礼にもこれまでにない数の人出をもたらしました。