胡録神社祭礼

神社 胡録神社
地域 千葉県市川市 湊新田
周期 毎年
日程 7月14日(固定)

■祭りの概要

行徳の二大夏祭りの一つ。地元では「胡録神社のお祭り」として親しまれています。

昭和の頃までは「大六天様のお祭り」あるいは「花火」(注)と呼ばれていたそうです。

 

祭りは曜日に関係なく、祭礼日の7月14日に開催されます。

参拝者には、煎じて飲むと熱病に効くとされる「笹団子」(笹に紅白の餅を付けたもの)が配られます。

 

昭和58年(1983年)までは祭りの日に花火が打ち上げられていましたが、それが中止になると、花火に代わって神社から行徳駅前公園にかけての路上が歩行者天国となり、多くの露店が並ぶようになりました。それと共に年々集まる人の数も増え、ピーク時には1万人ともいわれる人出でにぎわいました。

 

コロナ禍による3年間の露店中止を経て、令和5年(2023年)の祭りでは4年ぶりに露店が復活しましたが、安全面の配慮から規模を縮小して開催されました。

 

この祭りでは神輿の渡御は行われませんが、祭り当日は社殿横の神輿庫の扉が開き、神輿が公開されます。

 

 

(注) 戦前生まれの人は「大六天様の花火」、その後は「湊新田の花火」「胡録神社の花火」などと呼ばれていたようです。湊新田の子どもたちは「大六天様」のことを、意味も知らずに「だーるくてんさま」と呼んでいたという話もあります。

また、湊新田から離れた妙典や本行徳では「香取(かんどり)の花火」と呼ばれていた、という情報もいただきました。

■地域

胡録神社祭礼の主催は胡録神社祭礼実行委員会ですが、行徳中から人が集まり、行徳全体の祭りのような規模となっています。

■地名のいわれ

湊新田(みなとしんでん):江戸時代(元禄)に湊村から分かれた村で、最初は新湊村と呼んでいたようです。

 

元禄15年(1702年)の塩浜検地から、湊村と分かれて課税され、村名も湊新田と記されるようになりました。

 

※湊村の地名のいわれについてはこちらをご覧ください。



胡録神社

千葉県市川市湊新田1丁目10-24

 

東京メトロ東西線 行徳駅徒歩7分

【祭神】   

面足尊(おもだるのみこと)

※元の祭神は大六天様と伝えられています。

 大六天神社の多くは、明治の神仏分離の際に祭神を面足尊に変更したようです。

 

【創建】

年不詳

 

【本務社】

船橋大神宮

 

■Googleマップ



祭りについて

日時:2024年7月14日(日)13:00~21:00

    ※参拝は10:00~、露店は15:00頃

 

2024年度の情報は、こちらのページをご覧ください。NEW!

 

●過去の祭りの様子

2023湊新田 胡録神社祭礼レポート

2022湊新田 胡籙神社祭礼レポート



■祭りの由来

江戸時代、上総の国・富津村から江戸へ船で商いに出かけた男が嵐に遭い、神様に一心に祈りました。船は波にのまれそうになりながらも、ようやく行徳の浜辺にたどり着き、男は一命をとりとめました。その日が7月14日でした。

男はその後、救難の手助けをしてくれた娘と所帯を持ち、毎年7月14日になると行徳の浜辺に来て、花火を上げて神様にお礼をしたそうです。

これが、この祭礼と花火大会(昭和59年以降中止)の由来と伝えられています。


 

さらに歴史を遡ると、「煙玉」の話が登場します。

胡録神社の土地は元々干潟に浮かぶ島で、行徳船津へ出入りする船の航行の目標にされていたそうです。そして出入港の合図のために、煙玉が打ち上げられていたとか。

その後この土地は、元禄時代に潮除堤の一部となり、さらに享保時代には内陸となったので、煙玉は神事とされて伝承し、それに花火が加わって村の祭りとなったのだそうです。(「明解 行徳の歴史大事典」鈴木和明著)

 

 


■笹団子

参拝すると、紅白の小さな餅のついた笹団子がいただけます。

神社境内で育てている笹を刈り、干し、ちぎった餅を付けて作ったものです。

この笹を煎じて飲むと熱病に効くと伝えられ、昔はどの家でも神棚に飾ってあったそうです。

笹団子
笹団子
神社境内の笹
神社境内の笹
前年の笹団子はこちらへ
前年の笹団子はこちらへ

 

笹団子については、詳しく取材させていただいたこちらの記事もぜひご覧ください。


■地口行灯

令和5年(2023年)、境内左手に地口行灯が新設されました。

昼の様子
昼の様子
夜はライトアップされます
夜はライトアップされます

地口行灯とは、歌や格言、ことわざなどを、絵と共に描いた遊び心のある行灯で、江戸時代より祭礼の際に路傍や軒先などに掛けられてきました。

行徳では、五ヶ町(本行徳、本塩)や下妙典の祭礼時に参道に飾られています。

胡録神社でも、かつては祭礼の日に参道を照らす灯りとして飾られていたそうですが、長い間途絶えていました。

今回、これを復活させようと、行徳の歴史・文化活動の中心的人物である田中愛子さんに制作を依頼したそうです。

田中さんは本行徳八幡神社の地口行灯も手掛けられていますが、今回も行徳愛あふれる素敵な7作品を奉納されました。

下の画像はその原画の一部になります。

左上の歌は、昭和天皇が行徳の鴨場を詠まれたもの
左上の歌は、昭和天皇が行徳の鴨場を詠まれたもの

神輿

※この祭りでは、神輿の渡御は行われません。公開のみとなります。

町会神輿(湊新田)

製作者

後藤直光

製作年

大正11年7月
台輪寸法 三尺五寸

元の神輿は胴が細長く台輪が小さくて安定が悪く(スライド写真参照)、それを二点棒で担ぎ「放り受け」もしていたため、祭りのたびにひっくり返して怪我人が出たそうです。

そこで昭和58年頃、関係者が担ぎ仲間の大屋好成氏に相談し、台輪寸法が二尺八寸から三尺五寸に改修されました。

その後は、怪我人も出なくなったそうです。

 

平成22年7月には中台祐信が修復を行いました。

令和4年には、湊新田胡録神社 胡録會担ぎ棒を新調(取材記事はこちら)。これまでの4.5mから80㎝長くなり5.3mとなり、同年の四カ村の祭りで初披露されました。

製作年が判明している行徳の神輿の中では、最も古い神輿です。

後藤神輿店の東京で注文流れとなった神輿で、「後藤で出物がある」という話があったときに、湊新田では若い衆が積み立てをしていたため即購入できたそうです。

地元の有志67人の寄付により購入
地元の有志67人の寄付により購入


ここからは、当サイトの独自取材により、どこよりも詳しく胡録神社祭礼の歴史を徹底解説します。


■祭りの歴史

 

昭和20~30年代の頃は、田んぼの中に神社がありました。

夜は真っ暗になるので、祭りの夜には、内匠堀から神社までの道に地口行灯を20~30本並べ、参道を明るく照らしたそうです。

 

この地口行灯を並べるのは小4~中3ぐらいの子どもたちの役目でした。

祭り前夜、行徳街道(旧道)にあった駄菓子屋の8畳ほどの座敷に皆で泊まり、祭り当日の早朝4時頃から行灯を運び、田んぼの中に立てていったそうです。

湊新田の子どもたちにとっては、このメンバーに加われるようになるのが、「一人前」として認められたようでうれしかったそうです。

祭り前夜の集団お泊りも、さぞ楽しかったことでしょうね。

昭和36(1961)~昭和44(1969)年の胡籙神社周辺の様子
昭和36(1961)~昭和44(1969)年の胡籙神社周辺の様子

※ 国土地理院地図(電子国土Web)の航空写真をもとに作成


当時は神社裏手の土手跡(元禄時代の潮除堤跡?)近くに、周りの田んぼより1m以上高くなっている土地(畑)がありました。

昔の塩焼きの釜場の跡地だそうですが、そこが当時の花火の打ち上げ場所だったそうです。

この頃は、昼間に落下傘花火、夜は打ち上げ花火が上げられたそうです。

 

祭り当日のお昼に、音だけの昼花火が鳴ります。

それを合図に小学校では「湊新田の子どもは帰ってよろしい」と早退が認められ、子どもたちは帰宅後に花火を見に行ったそうです。

この季節は南西の風が吹くため、落下傘はたいてい湊方面、風が強いときは江戸川の方まで飛んでいったとか。

それを取ろうと大人も子どもも竹竿を振り回し、稲を踏み倒しながら夢中になって追いかけたそうです。

落下傘の争奪戦は、この祭りの楽しみでもあったようです。

 

なんと当時の落下傘を今もお持ちの方がいらっしゃいました!
湊囃子連代表の大屋好成さんです。ちなみに、湊新田の神輿の台輪サイズを改修された方でもあります。

 

この手作り感!

そしてスポンサーの名前が大きく入っていることにもびっくりです。

それにしても、こんな形で祭りの歴史を垣間見ることができるなんて。

これはもう、お宝といってよいのではないでしょうか。

画像提供:大屋好成さん

 

その後別の取材から、当時の花火の詳細が明らかになりました。

落下傘は花火1発に1つ仕込み、当時の金額で5000円ぐらい。それが3~5発セットで奉納されたそうです。

地元の店からの寄付がなかなか集まらなかったため、寄付をお願いしに行き、写真のような地域のスポンサー名が入っているのだとか。

 

では地元の店はというと、落下傘ではなく夜の花火の寄付をしたそうです。

夜の花火は、3号玉だと1発3000円、4号玉だと6000円、5号玉だと12000円といった具合に大きさにより値段が倍になっていき、5発セットで奉納され、上げる前に奉納者の名前が読み上げられたそうです。

1回の大会で100発ぐらいは上がり、寄付がたくさん集まった年は花火の数が増えて豪華な花火大会になったそうです。

 

夜の花火については、「周りが田んぼで真っ暗な中、早苗の絨毯と炸裂した花火のコントラストが強く印象的だった」という話が寄せられました。

また妙典の方々からは、「徳願寺の屋根越しに花火が見えた」「2階の窓から眺めていた」「浴衣を着て、妙好寺前からバスに乗って花火を見に行った」などの話も伺うことができました。遠い昭和の情景が目に浮かぶようですね。

 

その他、この日は参道の途中の田んぼの畦道に子どもたちが手持ち花火を楽しむ場所が作られたそうです。

手持ち花火は直径3㎝、長さ30㎝ぐらいの円柱型で、「手灯し(テトボシ)」と呼ばれ、着火して田んぼに向けて花火を楽しんだそうです。

1本の花火で5~6発飛んだという話も伺いました。
昭和40年代の初めにその花火の後ろ部分が抜ける事故があり、それ以降この花火は中止となったそうです。

その代わりとして、祭礼時に子どもに花火を配るようになったのだそうです。

 

 

昭和44年(1969年)に東西線東陽町~西船橋間が開通します。

 

それまでの打ち上げ場所は線路に近かったため、翌年に打ち上げ場所を行徳駅前公園に移しました。

当時の駅前公園は今のような整備された公園ではなく、空き地となっていました。

近隣の住宅も、わずかしかありませんでした。

昭和49(1974)~昭和53(1978)年の様子
昭和49(1974)~昭和53(1978)年の様子

※ 国土地理院地図(電子国土Web)の航空写真をもとに作成


 

駅前公園移転後は、落下傘花火は打ち上げられなくり、夜の花火も3号玉までとなりました。

昼に音だけの昼花火が鳴り、夜は19:00ごろから20:00ごろまでスターマイン(速射連発)が上がりました。

もっとも多い頃は、2千発もの花火が上がったともいわれています。

 

しかし宅地化が進むにつれ、昭和52年(1977年)ごろから騒音や煙への苦情が増え始めました。

花火に集まる人の数も4~5千人規模となり、安全上の問題から警察の道路使用許可も難しくなりました。

そして昭和58年(1983年)を最後に、花火は中止となりました。

この最後の花火大会も、開催にあたっては何度も警察に頼みに行き、やっとのことで実現したといいます。

 

花火大会の代替として始まったのが、近隣道路の歩行者天国です。

それまで神社周辺のみだった露店が、線路を越えて駅前公園まで続くようになりました。

当初は50~60店舗ほどでしたが、店舗の数は年々増え、コロナ前の令和元年(2019年)には170~180ほどにもなり、1万人ともいわれる人出でにぎわうようになりました。

一つの自治会の祭りとしては規模が大きくなりすぎたため、安全面を懸念する声も上がるようになりました。

 

そしてその後コロナ禍での3年間の露店中止を経て、令和5年(2023年)の祭りでは、神社境内と隣接する公園内のみに規模を縮小して開催されました。

今後の開催については、今回の振り返りを踏まえて検討していくようです。


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