神社 |
春日神社 |
地域 | 千葉県市川市 妙典三丁目 |
周期 | 3年に一度 |
日程 | 祭礼日(10月14・15日)前の土・日 |
今回 | 2024年10月12日㈯・13日㈰ |
次回 | 2027年 |
妙典三丁目にある春日神社の3年に一度の大祭です。
祭りの名前は「下妙典」ですが、「下妙典」は旧・住居表示で、現在はその地名は使われていません。今の妙典三丁目が氏子地域になります。
この祭礼では、台輪に載せた獅子頭を神輿のように担ぎます。
獅子頭はオスとメスで一対で、2基連ねてまちを練り歩きます。
「あんろ」「わっしょい」の掛け声や独自の地すりなども特徴的で、他の行徳の祭りとは一味違った個性を持つ祭りです。
獅子の縦横無尽な動きは見どころの一つで、特にメスの獅子はオスよりも強いとされています。宮入りでもなかなか入らないメスのやんちゃぶりにぜひご注目ください。
獅子の担ぎ手はこれまで男性のみとされてきましたが、令和6年(2024年)の祭礼から女性も担げるようになります。新しい時代の始まりとして併せてご注目ください。
下妙典(しもみょうでん):妙典とは法華経のこと。江戸時代、この地域の住民はすべて日蓮宗の信者でした。
下妙典は旧名で、今の妙典三丁目を指します。
2024年1月 行徳地域のおびしゃ
2022年7月 下妙典 龍神祭 レポート
●行徳最大の担げる獅子頭
古くから災いを祓う神社の守り神として大切にされてきた獅子頭。
(行徳の獅子頭についてはこちらで解説しています。)
下妙典の獅子頭は関東でもかなり大きいもので、獅子頭にしては穏やかな顔をしています。
頭の上に角があるのがオス、宝珠を載せているのがメスです。
江戸末期(安政年間1854~1860年)の後藤直光作と伝えられていますが、安政3年(1856年)の大津波で記録が流出したため正確な製作年は不詳です。
令和5年(2023年)に獅子頭の大修復が行われました。
修復お披露目までの過程は以下の記事をご覧ください。
2022年6月 下妙典春日神社の獅子頭 見納め
2022年7月 下妙典春日神社 獅子頭修復の寄付金募集
2022年7月 下妙典春日神社 看板&寄付者芳名板
2023年4月 下妙典春日神社の獅子頭 修復後の初お披露目情報
2023年4月 下妙典春日神社 獅子頭お披露目渡御 レポート
※スケジュールは当日の状況によりずれることがあります。時間はあくまでも目安とお考え下さい。
16:00~20:00
16:00~16:20 奉納囃子(妙典囃子保存会、本塩囃子保存会)
17:00~17:30 呼び込み太鼓(末広太鼓)
17:30~17:35 自治会長あいさつ
18:00~18:40 坂本りえミニコンサート
18:45~19:50 ビンゴ大会(自治会員のみ)
露店は境内に8店出るそうです。
奉納囃子で始まり、末広太鼓さんによる呼び込み太鼓の演奏や、行徳出身の演歌歌手坂本りえさんのミニコンサートが行われます。
ビンゴ大会は妙典三丁目自治会員向けのもので、自治会員以外は参加できません。
地境式の後、獅子が妙典三丁目町内を巡行します。
主な休憩・通過ポイントと予定時刻は以下のとおりです。
※当日の状況により大幅にズレることもございます。予めご了承ください。
13:10春日神社→13:15妙典一丁目との地境(地境式)13:25→ローソン市川妙典店→14:00妙典なかなか小町近く(休憩)14:20→14:45イオン市川妙典店前(妙典駅ロータリー入口)→妙典交通広場(妙典駅ロータリー)→→15:15イオン市川妙典店前(妙典駅ロータリー入口)→16:00妙典なかなか小町近く(休憩)16:20→ローソン市川妙典店→16:30バイパス交差点→16:45徳願寺近く(休憩)17:05→本塩豊受神社角→17:30バイパス交差点→17:50春日神社近く(休憩)18:10→18:30春日神社
2024年の見どころポイント
①獅子の担ぎ手はこれまで男性のみとされてきましたが、今年から祭礼でも女性が担げるようになりました。新たな歴史の幕開けとなります。ぜひご注目ください。
②昔は子どもたちが家々をまわって獅子の尾(注)でお祓いし「悪魔祓い」と3回唱えると、おひねりやお菓子がもらえたそうです。今年はその行事が復活するそうですよ。
(注)獅子の尾は地域によって呼び方が異なるそうですが、下妙典では「悪魔っぱらいの棒」とも呼ばれているそうです。
2023年獅子頭修復後のお披露目
2018年祭礼
2018年祭礼 宮入り
交差点でのやんちゃシーン
※前半は四カ村、後半が下妙典(0:17~)です。
担ぎ手十数人が台輪に乗せた獅子頭を神輿のように担ぎます。
昔からオスの獅子は若手、メスの獅子はベテランが担ぐと決まっており、宮出しも宮入りもオスが先。渡御の際は、メスが前になります。
時折獅子頭の後ろから胴幕をのばし、参加者が大きくあおりながら進みます。
要所要所で行徳揉みをはさみますが、地すりは内側(神輿の方)を向いて跳ねながら回る浦安型で、行徳の基本の地すりとは大きく異なります。
※前半は新井の祭礼、後半が下妙典(0:19~)です。
オスとメスの担ぎ棒を交差させて押し合う場面は、オスとメスの交わりを表すといわれていますが、力比べをしているという説もあり、正確なところはわかりません。
渡御の掛け声は「あんろ」「わっしょい」、放り受けの時は「よいよいよい、そ~れよよいのよ~い」で、どちらも下妙典独自のものになります。
「あんろ」は「あおれ」から来ているとも伝えられています。
担ぎ手の衣装は行徳伝統の白装束で、手首に晒を巻きます。
昔は白装束の首後ろに赤で巴のマーク、腰紐の下に青で毛卍文(けまんもん)を付けて、氏子であることを表したそうです。
昭和30年代ごろまではマークを染めていましたが、その後ハンコになり色も黒になりました。現在は赤と緑のインクで押しています。
昭和50年代半ばごろからは、担ぎ手が足りなくなり他所の地域から担ぎ手が入るようになり、マークをつけなくてもよしとされるようになりました。
※担ぎ手団体についての詳細はこちらをご覧ください。
獅子保存会
発足 :1980年(昭和55年)10月15日
会員数:約20名
※お囃子についての詳細はこちらをご覧ください。
地元の皆さまから伺った昔の祭りの話をこちらに残しておきたいと思います。
今後も随時追記していきたいと思いますので、ぜひこちらからお話や写真をお寄せください。
・昭和23~24年ごろまではお囃子の大きい山車があり、子どもや女性が着物姿にたすき掛けで大勢で曳いていました。曳き手の半分は男性で、山車を転回するときはコロ(丸太棒)を使って向きを変えていました。
その後電線に引っかかるようになったため、山車は廃止となり解体されました。
・昔は氏子以外の人は、獅子を担ぐどころか触ることすら許されませんでした。氏子でも、男性は15歳ぐらいになって青年団に入って初めて獅子が担げるようになりました。それまでは獅子に触れることもできませんでした。
・祭りを開催する年は決まっておらず、青年団が「祭りをやらせてください」とお願いしに行くところから始まり、世話人が会議を開いて開催を決定しました。だいたいすんなりとは許可が下りず、「もう1回会議をやらせてください」と頼みに行き、借金覚悟で「浅草から芸人を呼ぶからやらせて」などと交渉したこともありました。
許可が下りると寄付金を集めました。3年連続して開催できた年もありました。
・昔は獅子を台輪に載せずに4~5人で担ぎ、獅子頭の後ろからのばした胴幕をみんなであおっていました。
昭和35年ごろから台輪に載せるようになりました。
・昔は年寄りが厳しく、さしは真っすぐ上げて真っすぐ下げないと𠮟られました。地すりも地面すれすれまで下げたため、手をケガしないように砂をまきました。扇子がボロボロになるほど扇子で叩かれたので、みんな言うことを聞きました。(扇子がボロボロになると、木の部分だけで叩かれ、それがまた痛かった…。)
五ヶ町の祭りは憧れで、本塩はきれいに揉んだので、宮入りをみんなで見に行きました。
・昔は上妙典と下妙典の祭礼は同じ日で、2年に1度行われていました。年寄りが町の境界線を大事にしていて、祭りになると喧嘩をしに行かされました。お宮から獅子を担いで走っていき、上妙典の神輿にぶつけたり、神輿の上に獅子を載せたり、本気で殴り合いをしたりしました。神輿の鳳凰を取ろうとしたが抜けなかった、なんてこともありました。そういった喧嘩も遊びの一つで、獅子頭を台輪に載せるようになった昭和35年ごろから、昭和40年代ぐらいまでやっていたと思います。
喧嘩があまりにひどいので、年をずらして交互に祭りを開催するようになり、その後昭和40年代に3年に1度になりました。
※これについては、上妙典側からも以下のような話を聞いております。
双方からの話をすり合わせると、さらにおもしろい昭和のエピソードになりますね。
・下妙典からオスとメス両方の獅子が来ましたが、オスはすぐに引っ込み、メスが挑んできました。上妙典の神輿は大きく担ぎ棒も長いのであまり被害はなく、屋根の巴紋がへこむ程度。逆にこちらが獅子の耳を奪ったこともありました。神社にそれを置いておいたら、後から下妙典の役員がお酒を持って謝りに来たので、返却しました。(上妙典関係者)
・昭和21~22年頃から祭礼時の飲酒が禁止となりました。
・昭和40年ごろまでの祭りは10月14・15日開催と決まっていたので、平日の場合小学校は2時間ぐらいで早退していました。
その日は銭湯のタダ券が配られました。
・白装束は親が縫い、白足袋は1回でダメになるため自分で縫いました。
白装束は祭りの1週間位前に御祓いを受けてからでないと着られませんでした。
・昔は今のような行徳揉みはやっていませんでした。手首の晒も巻いていませんでした。今の形がいつから始まったのかはわかりません。
・平成27年(2015年)までは子ども神輿も出していましたが、子どもが集まらないため前回の祭礼(2018年)から出さなくなりました。