神社 | 香取神社 |
地域 | 千葉県市川市 欠真間、香取、湊新田、湊 |
周期 | 3年に一度 |
日程 |
10月10日前の土・日 2022年は10月8日(土)・9日(日)に開催 |
次回 | 2025年 |
行徳地域の4つの町(欠真間、香取、湊新田、湊)(注1)の総鎮守・香取神社の3年に一度の大祭です。行徳でも歴史ある祭りとされ、五ヶ町の祭礼と同様、江戸時代には祭りが行われていたことが文献で明らかになっています。
四カ村合同の御霊遷しの後、欠真間、香取、湊新田、湊の順番に宮神輿を担ぎつないでいきます。宮神輿は男性しか担げません。行徳独特の白装束の衣装に身を包み、「わっしょい!」の掛け声で町を練り歩きます。渡御の始めや途中途中で、伝統の「行徳揉み」が披露されます。
宮神輿を次の町へ渡すときは、「神輿を渡せ」という役員と「もっと揉ませろ」という担ぎ手たちとの攻防が繰り広げられ、見どころの一つとなっています。
最後の町・湊の渡御が終わると、白丁(注2)が宮神輿を担いで神社に戻り、そこから祭り最大の見せ場である宮入りが始まります。神社の前で数回揉んだ後、「神輿を境内に入れろ」「入れるな」の攻防、そして境内に入った後も今度は「鳥居をくぐれ」「くぐらせるな」のせめぎ合いが続き、祭りは最高潮に達します。
鳥居をくぐると宮入りとなり、拝殿前で最後の揉みを行って手締めとなります。
(注1)香取は自治会が「香取自治会」と「香取二丁目自治会」に分かれたため、自治会でいうと5つの自治会の祭りとなっています。
(注2)白丁と呼ぶようになったのは近年のことで、五ヶ町の祭礼のように古来から呼ばれていたかは不詳です。
欠真間 (かけまま):地名の由来は以下の説があります。
①大洪水で真間(崖の意味)が崩れて、流されてできた土地
②国府台合戦の難を逃れた真間の人々が移住して開拓した土地
③江戸川の自然堤防のえぐれた崖状地
香取(かんどり):元は欠真間(大字)の字名(小字)で、昭和31年に大字に昇格し、市川市香取となりました。
香取の地名は香取神社からきています。香取神社は、佐原の香取神宮を勧請して創建されたため、本宮と区別するために「かんどり」と読むことになったといわれています。
湊新田(みなとしんでん): 江戸時代(元禄)に湊村から分かれた村で、最初は新湊村と呼んでいたようです。元禄15年(1702年)の塩浜検地の記録では湊新田と記されています。
湊(みなと):江戸時代(寛永)に欠真間から分割してできた村です。
湊の地名は、昔、この場所に大舟小舟の出入りでにぎわった湊があったことからといわれています。
※こちらのページに詳しく紹介しています。
神社神輿(宮神輿)
製作者 |
不詳 |
製作年 |
不詳 |
台輪寸法 | 三尺五寸 |
昭和53年10月に中台祐信により復元。
大正時代から復元までの約65年間は、損傷が激しかったため宮神輿の渡御は行われず、町会神輿のみで祭りが行われていました。
町会神輿(香取)
製作者 |
中台祐信 |
製作年 |
平成7年10月 |
台輪寸法 | 三尺五寸 |
香取の新しい神輿です。以前の神輿は、祭礼時に香取二丁目に貸し出されています。
町会神輿(香取二丁目)
製作者 |
不詳 |
製作年 |
不詳 |
台輪寸法 | 二尺三寸 |
香取の古くからの神輿で、祭礼時に二丁目に貸し出されています。
新しい人が多い地域のため、独自に江戸前の揉みも行われています。
町会神輿(湊新田)
製作者 |
後藤直光 |
製作年 |
大正11年7月 |
台輪寸法 | 三尺五寸 |
製作年が判明している行徳の神輿の中では、最も古い神輿です。
後藤神輿店の東京で注文流れとなった神輿で、「後藤で出物がある」という話があったときに、湊新田では若い衆が積み立てをしていたため購入できたそうです。
元の神輿は胴が細長く台輪が小さくて安定が悪く(上のスライド写真参照)、それを二点棒で担ぎ「放り受け」もしていたため、祭りのたびにひっくり返して怪我人が出たそうです。
そこで昭和58年頃、関係者が担ぎ仲間の大屋好成氏に相談し、台輪寸法が二尺八寸から三尺五寸に改修されました。
その後は、怪我人も出なくなったそうです。
平成22年7月には中台祐信が修復を行いました。
令和4年には、湊新田胡録神社 胡録會が担ぎ棒を新調(取材記事はこちら)。これまでの4.5mから80㎝長くなり5.3mとなり、四カ村の祭りで初披露されました。
子ども神輿(欠真間)
製作者 |
不詳 |
製作年 |
不詳 |
台輪寸法 | 一尺三寸 |
欠真間一丁目と二丁目の神輿があります。
令和4年の祭りでは宵宮の展示のみで、担ぎは行われませんでした。
子ども神輿(湊)
製作者 |
大屋好成氏、湊育成会 |
製作年 |
令和元年 |
台輪寸法 | 約二尺 |
台輪、担ぎ棒、馬は湊の大屋好成氏、上部は湊育成会が製作した神輿です。
※写真は過去の祭りのものです。
宮神輿渡御
8:00~ 欠真間
10:00~ 香取
12:00~ 湊新田
14:00~ 湊
宮神輿は欠真間→香取→湊新田→湊の順で4つの町を渡ります。
渡御の始めや途中途中で行徳独特の「行徳揉み」が披露されます。
行徳街道(旧道)での路線バスを待たせての揉みはお決まりの光景。
また、バイパスでは信号が変わっても交差点内で揉みが続けられ、警察官に押し出される場面も見どころの一つとなっています。
渡御を終えたくない担ぎ手たちは、地境で何度も引き返し、神輿をなかなか次の町に渡そうとしません。「神輿を渡せ」という役員との攻防は必見です。
宮神輿が他の町を渡っている間は、町会神輿や子ども神輿が出ます。
白装束の帯の色分け |
四カ村の白装束の帯の色は、本来は白とされていましたが、宮神輿の渡御が再開された昭和53年以降、担ぎ手の町を識別するために色分けされるようになりました。
欠真間:ピンク 香取 :茶 湊新田:紫 湊 :白(水色から変更)
この色分けは、昔の船の色に由来があるそうです。 南行徳の漁業組合が、昔、ベガ舟の水押(みおし/船の先端のとがっているところ)を町ごとに色分けしていたそうで、帯の色はそのときの色に合わせたものだそうです。 |
祭り開催の年は、9月半ばごろ、自治会掲示板にポスターや各案内が掲示されます。
江戸時代に刊行された地誌「葛飾記」(1749年)と「葛飾誌略」(1810年)には、香取神社の祭礼日は9月11日で、屋台4基が出たことが記されています。当時の祭りの主役は屋台(山車)で、どちらの文献にも神輿の渡御についての記述はないため、江戸時代に神輿の渡御がどのような形で行われていたのかはわかっていません。
平成30年(2018年)に、湊のお囃子団体「湊囃子連」が、会に伝わる太鼓(大胴)の革の張り替えを行ったところ、太鼓の内側に「文政十三年九月吉日 江戸浅草新町 御用太鼓師 石垣孫市直正」の墨書きが見つかりました。 これにより、文政13年(1830年)には行徳で祭りが行われていたことが立証されています。
昭和30年代までは各町に背の高い山車(屋台)があり、別々に町をまわっていました。
山車が電線に引っかかりそうになると、さすまたのようなY字の棒で電線を押し上げて山車を通していたそうです。
宮神輿は、大正から昭和53年に修復されるまでの約65年間渡御が行われず、町会神輿のみを担いでいました。
その頃町会神輿を所有していたのは、香取(現在香取二丁目に貸し出している神輿)、湊新田、湊で、欠真間は神輿がなくレンタル、香取の神輿もボロボロだったため使用せずレンタルでした。湊も今の町会神輿は中神輿として中学生ぐらいの子どもが担ぎ、大人用はレンタルでした。
大人が自前の神輿を担いでいたのは湊新田のみで、二点棒で担いでいたのも湊新田のみでした。
当時の四カ村は喧嘩祭りで、地境で神輿同士をぶつけて大喧嘩するのが恒例となっていました。警察沙汰になり、道路の使用許可が下りずに祭りが16年も中断したこともありました。
また町ごとに担ぎ方もバラバラだったようで、欠真間では「おいりゃ」の掛け声だったとか、新しい住人が多かった香取二丁目は江戸前の担ぎ方をしていたなどの話も聞かれます。
宮神輿の渡御は約65年も途絶えていたため、復活したときにはかつての祭りを知る人はほとんどおらず、宮神輿を担ぐ人数や揉み方、掛け声など、大正以前の伝統は不詳となってしまいました。
五ヶ町の行徳揉みは、担ぎ手たちによって自然に四カ村にも伝えられていましたが、揉み方がばらばらだったため、湊新田・湊を中心とした伝説の神輿会「投輿会」のメンバーが、五ヶ町(特に本塩)に行徳の揉み方を教わりに行き、その真髄を叩きこまれ、四カ村に伝えたそうです。
また担ぎ手の人数も、この会のメンバーが宮神輿の大きさから算出して16人としました。この人数は、最近まで湊で引き継がれていたそうですが、時代の流れで16人ではきついという話になり、現在は20人で統一されています。
四カ村は江戸時代から続く祭りでありながら、時代とともに形を変えて、今の形に落ち着いたようです。
※喧嘩祭りや「投輿会」の武勇伝は、おもしろい話がたくさんありますので、また別の記事で紹介したいと思います。
感染拡大防止策として、神輿の担ぎ手にはコロナワクチン接種や2回の抗原検査、検温、マスク着用、同意書の提出などが義務付けられました(詳しくはこちらの担ぎ手募集記事で紹介しています)。
担ぎ手は、その完了証明となるリストバンドを腕に巻いて祭りに参加しました。
担ぎ手は、担ぎ棒2本の左右に前4人、胴2人、後ろ4人ずつで、2本合わせて20人です。
渡御の始めと終わり、あるいは途中要所要所で「さし」「放り受け」「地すり」という行徳独特の揉みを行います。
掛け声は「わっしょい」です。
担ぎ手の衣装は伝統の白装束で、帯の色で町を見分けられるようになっています。
欠真間:ピンク
香取 :茶
湊新田:紫
湊 :白(水色から変更)
女性は担ぐことはもちろん、触ることもご法度とされている宮神輿に対し、町会神輿は女性も担げたり(欠真間)、女性だけで担ぐ女神輿が出たり(湊)と、女性も参加できるようになってきています。
■担ぎ手団体
※担ぎ手団体についての詳細はこちらをご覧ください。
発足 :2006年(平成18年)10月10日
会員数:12名(2022年5月現在)
発足 :1940年(昭和15年)ごろ
会員数:約50名(2022年5月現在)
発足 :2008年(平成20年)5月
会員数:28名(2022年5月現在)
発足 :1975年(昭和50年)
会員数:10名(2022年5月現在)
※お囃子についての詳細はこちらをご覧ください。
湊囃子連は、江戸時代に発足された歴史あるお囃子ですが、1956年(昭和31年)から活動が途絶えていました。
2017年(平成29年)に地元の有志により、当時の楽器を継承して活動が再開されました。
前回(2019年)の祭りでは、62年ぶりに地元のお囃子が復活し、湊の渡御のときのほか、宮入りでも演奏されました。