1月15日は小正月。
年神様や先祖の霊を迎える行事が多い大正月に対し、小正月の行事は豊作や無病息災を祈願するものが多いようです。
この時期に行われる新春の伝統行事「おびしゃ」(注)もその一つ。
元は弓で的を射てその年の豊凶を占う予祝儀礼(豊作を願う行事)だったともいわれていますが、千葉県や埼玉県、茨城県などに伝承されるおびしゃで弓射行事を行うものは少なく、酒宴を伴った年中行事として行われているところが多いようです。
また、おびしゃのお札や当番帳を1年間預かる当番(これを宿といいます)の引き継ぎの儀式(当渡し)を行うところが多いというのも、南関東のおびしゃの特徴だそうです。
千葉県市川市では、市北部の大野町・駒形大神社の「にらめっこおびしゃ」が有名ですね。
行司を中にしてにらみ合いながら酒を飲み、笑ったら両者が大盃の酒を飲まなければならないというユニークな行事は、市の無形民俗文化財にも指定されています。
このおびしゃは無病息災を願い餅をぶつけ合う「餅ぶつけ」も特徴的で、併せて紹介されることが多いようですが、前述の「当渡し」が行われていることも注目しておきたい点です。
おびしゃの行事は、見物人を集める祭りと違い関係者のみで行われるため、にらめっこおびしゃのような有名なもの以外はほとんど一般の方に知られることがありませんが、実は行徳地域でもいくつかの神社で行われています。
今回は、妙典の2つのおびしゃを中心に取材させていただきました。
どちらも大野町と同じように「酒宴を伴った行事」であり、かつては「当渡し」も行われてきました。
またおびしゃでは甘酒をふるまうところが多いようですが、これも妙典の2つのおびしゃに共通しています。
さらに、それらの取材後に香取と相之川でもおびしゃが行われていることがわかりました。
この2つのおびしゃは、お酒にスポットが当たる行事も「当渡し」もなく、上記のおびしゃとは少し異なるようです。
それらの特徴も頭に入れながら、各おびしゃの様子をみていきましょう。
(注)おびしゃは民俗学的にはカタカナやひらがなで表記されることが多いようですが、漢字表記は地域によってさまざまです。
弓射行事から「歩射・備射・奉射」などと表記する地域があり、また当渡しを行う地域では「御奉謝」と表記するところも多いそうです。
以下、一般用語として使うときはひらがなで、それぞれの地域ではそこで使われている漢字で表記します。
上妙典八幡神社の御奉謝
上妙典の御奉謝の歴史は古く、始まりは江戸時代の安永9(1780)年からとされています。
大野町のにらめっこおびしゃは安政6(1859)年の記録を元に踏襲されているそうなので、記録のうえではそれよりも80年近く古いことになります。
3つの御奉謝
元々は
・1月12・13日 三宝奉謝
・1月15日 塩場の人たちの新場の奉謝(龍宮奉謝の一つ)
・1月20日 八幡奉謝(別名 20日奉謝)
・1月25日 天神奉謝‐寺子屋の筆子たちの奉謝
・2月 1日 龍宮奉謝
など多数の御奉謝があり、当初から八幡神社の別当寺である妙好寺が行事を行ってきました。
その中で三宝奉謝、八幡奉謝、龍宮奉謝の3つが長く続いていたそうです。
しかし神社で3つの御奉謝を続けていくのは大変ということで、昭和39(1964)年以降はその中の八幡奉謝を神社の御奉謝とし、三宝奉謝と龍宮奉謝については妙好寺の永代預かりとしたそうです。
この2つの御奉謝は、自治会の婦人会の新年会として、今も1月12日に妙好寺が祈祷を行っているそうです。
ご本尊は文字曼荼羅の掛け軸
そのような歴史的背景から、上妙典の御奉謝は八幡神社の行事ながら、拝む対象は神札ではなくご本尊の文字曼荼羅の掛け軸となります。
この点が、他の地域の御奉謝とは大きく異なる点かと思います。
掛け軸には宿の名前や年なども記され、当番帳も兼ねていました。
かつては部落の十数軒の家が1年ごとの当番制でこれを預かりました。
宿を引き受けた家では、前もって畳や襖を新調したり、御奉謝当日の宴会の準備をしたりと費用がかかることから、誰でも引き受けられるという役ではありませんでした。
そういった意味で、御奉謝の宿になることは名誉なこととされたそうです。
宿が1年間大切に預かったご本尊は、御奉謝の日に神社に祀られ、妙好寺による祈祷が行われていました。
しかし後に、神社なので仏式ではなく神式にしようということになり、八幡神社の本務社である船橋大神宮が神事を行うようになり、今に至ります。
かつての御奉謝のかたち
御奉謝当日は、宿の家に近所(隣組)の人たちが集まって料理を作り、宴会の準備をすることから始まりました。
神社では、ご本尊に五升餅や甘酒、神饌をお供えし、無病息災や家内安全などの祈祷が行われました。
その後、直会として当番の家で酒宴が催されます。
宴会には次の当番の人が招かれ、ご本尊の引き継ぎが行われます。
その際、次の当番は注がれたお酒を全部飲み干さないとご本尊が引き渡されないとされ、大量にお酒を飲まされ盛り上がったようです。
また、神事でお供えした五升餅を切り分け、甘酒とともにそのお下がりをみんなでいただくという風習もあったそうです。
(これを「神人共食」といい、神様と人が共に飲食する意味があるそうです。)
宴会の後は、新旧の当番と立会人が列をなして新しい当番の家へ行きました。
このとき、下妙典では引き継ぐ厨子を背負い、また大野町では当番帳(日記)を背中に入れたようですが、上妙典では掛け軸を頭上に差し上げ、あるいは年によっては当番の人の肩に載せて(付き添いの人がそれを支えて)運んだそうです。
御奉謝は1年の初めに大切な役目を引き継ぐ行事であり、同時に部落の親睦を深める新年会の意味もあったのでしょうね。
時代とともに変わりゆく御奉謝
宿の当番制は当番の負担も大きいことから、平成11年(1999年)に廃止され、ご本尊も宿ではなく神社が預かるようになりました。
またかつては当番の家で行っていた宴会も、後に公民館で行うようになり、さらには宴会自体を行わなくなったそうです。
五升餅のお供えも、今は小さいお供えに変わり、切り分けることもなくなったようです。
このように、時代と共に御奉謝のかたちも変化していますが、「それでも続けていくことが大事」と妙好寺のご住職は話します。
現在は毎年1月20日前後に、「御奉謝祭」として祝詞奏上や玉串奉奠などの神事のみが行われているそうです。
上妙典龍宮様と龍宮奉謝
さて、上妙典には龍宮様(八大龍王)が祀られているのをご存じでしょうか。
元は公園の中にあったものが、妙典土地区画整理事業で平成10年に現在の場所に移され、立派な鳥居や石碑などが建立されました。
その石碑の一つに、次のようないわれが書かれています。
【上妙典龍宮様(八大龍王)の由来】 ここに安置する龍宮様(八大龍王)は、安永3年(1774年)に、上妙典村中が願主となり妙好寺第十五世 大寳院日賢上人が村中老若男女の一切無障礙・海上安全・製塩業繁栄を祈り御祀りされたものです。 安永9年(1780年)の2月1日から龍宮奉謝として毎年十軒程の家が順番に当番となり昭和38年(1963年)迄、御奉謝は盛大に執り行われてまいりました。その後、永代妙好寺預かりとなった龍宮奉謝の御本尊様は、今日に至るまで上妙典婦人会の新年会に三寳奉謝の御本尊様と共に御祀りされています。 妙典土地区画整理事業により此の場所を定め御遷座頂き未来永劫、妙典の地の御守護と平安無事を祈り御祀りしております。 |
ここに書かれているのが、まさにこれまで述べてきた御奉謝の話ということになります。
一般的にはほとんど知られていない御奉謝の話なので、これだけ読むと少し難しいかもしれませんが、当記事をお読みいただいた方は、ここに書かれている内容も理解しやすくなったのではないでしょうか。
毎年2月1日には、今も妙好寺により龍宮奉謝が行われ、婦人会の皆さんが参列されています。
終了後には甘酒がふるまわれていることも特筆しておきたいと思います。
妙好寺は妙典の歴史とともにあり、今もなお地域の伝統を守り続けてくださっています。
あらためて感謝と敬意を表したいと思います。
御奉謝の神札と当番帳を安置する厨子(ご神体)には大正3年の年号が記され、少なくともその年には御奉謝が行われていたことが明らかになっていますが、これが始まりの年なのか、あるいは古くから行われており厨子だけがこの年に作られたのかは不明です。
中に安置されている当番帳も一番古いのは昭和27年のものだそうで、それ以前の記録は残っていないようです。
甘酒御奉謝
下妙典の御奉謝は、かつては「甘酒御奉謝」とも呼ばれ、1月19日から21日の3日間で行われていたそうです。
1月17日にはその準備として、班の女たちが宿になった家に集まり、糀を寝かせて甘酒を仕込むところから始まりました。
19日にはその甘酒の味をチェックし、宴会の料理を作ります。
そして20日当日、宿の人ができ上がった甘酒を神社に運び、神前にお供えします。
神事の後、お下がりとしてその甘酒が村中の人にふるまわれたそうで、大人も子どもも鍋ややかんを持ってもらいに行ったとか。
それがこの御奉謝の楽しみでもあったそうです。
そして直会として宿では酒宴が開かれます。
このとき次の宿の人がお酒を飲まされ、世話人や組の人20人ほどで四斗樽をあけてしまうほどたくさん飲んで盛り上がったのだとか。
その後、宿の人がご神体を後ろ向きにおぶって神社に行き、そこでご神体を次の宿の人に受け渡します。
次の宿の人も後ろ向きにおぶって帰ったそうですが、お酒に酔っているので、周りの人が支えながら歩いたとか。
21日は鉢洗いといって、残り物を食べてから、かかった費用(毎月の積立てから支出)を清算し、会計役も次の宿の人に引き継いだそうです。
宿になると1年間ご神体を預かり、毎朝ご神体にお水とご飯を供え、毎月1日と15日には榊を新しくしてご神体を大事に祀ったそうです。
宿を務める間にその家で不幸があると、役を辞して次の人に役を譲ることになっていたそうです。(これは上妙典も同様です)。
しかしこちらも時代の流れで、宿の負担を無くすため、平成8年を最後に当番制が廃止されました。
日程は1月20日の前の日曜日1日のみとなり、ご神体預かりも酒宴もすべて神社で行う今の形となりました。
近年の御奉謝(コロナ前とコロナ後)
ここからは実際の御奉謝の様子をお伝えしたいと思います。
まずこちらは、神前に供えられた神饌です。
この中で特徴的なのが、これ。
大根と京にんじん(金時にんじん)で作った扇です。
京にんじんは正月用として年末に出回るにんじんで、関東では正月飾りとして縁起物の形に加工されることが多いそうです。
末広がりの扇は、まさに縁起物ですね。
神饌の中に甘酒は無く、甘酒御奉謝のなごりは無いようです。
神事は、春日神社の本務社である菅野の白幡天神社の神職が執り行います。
祝詞奏上、玉串奉天などの一連の儀式の後、
参列者全員が新年を祝ってお神酒で乾杯します。
その後、盃事の儀式が行われます。
コロナ以前は、神殿隣の自治会館にご神体と神饌を移して、再度神事を行ってからスタートしていました。
儀式では、盃を前に酒の注ぎ手と受け手が向かい合います。
(昔は宿を受け継ぐ当番が受け手となりました。)
「1献!」「2献!」という行事の掛け声に合わせて10献(10杯)まで酒を飲みます。
このとき笑ったら大きな盃に注がれ、よりたくさん飲まなければならないという決まりがあり、まわりも野次を飛ばし笑わそうとします。
無事に10献まで飲み干すと、お返しに注ぎ手も飲まされ、大笑いの中、儀式終了となりました。
本年(2024)は4年ぶりにこの儀式が再開されましたが、コロナ明けということで、神事の後、場所も移さず簡易的な形で行われました。
今回はお酒の受け手を3人に増やし、10献を分担して飲み進めました。
一人あたり3~4杯に減ったわけですが、それでもお酒が強い人でないとツラそうな役ですね…。
無事に10献終わった後は、自治会長がお酒を飲んで終了。
お酒をたくさん飲み笑い合うところは昔と変わらず、大野町や上妙典とも共通していますね。
昔はこうして部落の人たちが新年に集まり、お酒を酌み交わして絆を深めたのでしょうね。
本年は特別に当渡しの様子も再現されました。
ご神体を後ろ向きに背負い、ひもでしばります。
寒い日にはご神体を背負った上からどてらを着て、赤ちゃんをおぶるように大切に運んだそうです。
このとき、後ろを振り返ってはいけないという決まりもあったとか。
一連の様子を短い動画にまとめましたので、ぜひこちらもご覧ください。
今回は、盃事から当渡しまでの様子を簡易的に再現していただきましたが、来年は盃事についてはコロナ前の正式な形で行う予定とのこと。
こうして役員の方たちが伝統を守り続けてくださっていることに、感謝したいですね。
妙典の取材の後、香取と相之川でもおびしゃが行われていることがわかりました。
これまで上げてきた「酒宴」や「当渡し」「甘酒」などの要素が含まれず、旧南行徳町のおびしゃは妙典のおびしゃとは趣向が異なるようです。
香取の香取神社の御奉謝
まずは香取神社。
香取神社では毎年1月に受験生を対象に合格祈願祭が行われていますが、その案内に、今年初めて「御奉謝祭」の文字が加わりました。
(香取神社も妙典と同じく「御奉謝」の表記を使っているようです。)
関係者に確認したところ、香取神社では、四カ村の大祭を行わない年に合格祈願祭と兼ねて御奉謝祭を行っているとのこと。
といっても、内容はいつもの合格祈願祭と変わらないそうです。
しかし、そもそも秋の祭礼と新春の御奉謝とでは、神事としての目的も意味も異なるわけで。
大祭を行わない年に御奉謝を行うという意味がよく理解できませんでした。
もう少し詳しく知るため、元神社総代の狩野一廣さんにあらためてお話を伺ってみました。
狩野さんは、江戸時代に作られた農業用水路・内匠堀(浄天堀)を開削した狩野浄天の子孫で、狩野家や行徳の歴史を研究されています。
狩野さんによると、香取神社のおびしゃについては、江戸時代の文化7年(1810年)に刊行された地誌「葛飾誌略」に記述があるとのこと。
自分も四カ村の祭礼の歴史について調べていたときに何度も目を通していた「香取神社」についての項目ですが、正直なところ祭礼以外の部分はよくわからず読み飛ばしていました。
あらためて読み返してみると「正月の備射武射」について「神酒を供し、人々が集まって祝う」と書かれています。
これぞまさしくおびしゃのことだったんですね。ちょっと感動してしまいました。
(漢字表記は「お備射」の字を使っていたようですね。)
これで江戸時代には香取神社でもおびしゃが行われていたことが明らかになりました。
ただ「その式については古書にも載っているが、今は名前が残るだけで知っている人はいない」とも記され、これが刊行された1810年にはすでにおびしゃの内容についてわからなくなっていたようです。
歴史はさらに古いということになりますね。
さらに同書には「御膳、古くは狩野家にて奉献していた。中頃、四ケ村へ譲った」との記述もあります。
この狩野家とは、もちろん狩野さんのご先祖です。
話は少し飛びますが、狩野一門のご先祖に、上総一の宮の一松神社(ひとつまつじんじゃ)の神職だった方がいたそうです。
一松神社では毎年1月4日にお的神事(おびしゃ)が行われています。
その歴史は古く、戦国時代の天文3(1534)年からとされています。
内容は神事の後、浦安の舞が奉納され、
「御膳」と呼ばれる昔から伝わる献立の料理(黒豆やなますなど)をいただきながら酒を飲み、
その後弓矢を射てその年の吉凶や豊凶を占うというものだそうです。
一方、行徳の香取神社でも同じ時期に狩野家が神職を務めていたことから、かつて香取神社と一松神社とは交流があったそうです。
そのことから、おそらく香取神社でも一松神社と同じような内容のおびしゃが行われていたのではないかとのこと。
実際、香取神社でも、かつてはおびしゃのことを「御膳番」と呼んでいたそうで、欠真間自治会館には文久2(1862)年の御膳の道具一式(塗りのお椀など)が残されていたそうです。
残念ながら、それは会館建て替えのときに処分されてしまったとか。何とも惜しいことをしました。
以上のことを繋ぎ合わせて推測すると、香取神社では、上妙典や大野町でおびしゃが始まる前から、狩野家により弓矢を射るおびしゃが行われ、御膳をいただく酒宴が催されていたのかもしれませんね。
日枝神社ではおびしゃを「御毘謝」と表記するそうです。
日程は毎年1月14日前後で、祭壇にお餅や海のもの、山のものなど旬のおいしいものをたくさんお供えして祈祷を行います。
神事の後、そのお下がりを氏子や総代の方たちでいただくそうです。
これには、おいしいものをたくさん食べて滋養をつけ、真冬の寒い時期を乗り越えるという意味合いがあるそうです。
祝宴や当渡し、甘酒といった要素は無く、これまで見てきた行徳地域の他のおびしゃとは趣向が異なるようです。
神社を守る神職や総代、氏子の皆さんで伝統が大切に受け継がれています。
この御毘謝は、日枝神社が兼務する相之川香取神社でも同日に行われているそうです。
今回の取材により、行徳地域では上妙典、下妙典、香取、相之川2社の合計5つの神社で今もおびしゃが行われていることがわかりました。
当初の予定より大掛かりな記事となってしまい、最後までお読みいただくのも大変だったと思います。
書く方も、正直かなり苦労しましたが(苦笑)、行徳のおびしゃを一つの記録として残すことができたかと思います。
大変貴重なお話をいただいた各関係者の皆さまに心から感謝いたします。
本当にありがとうございました。
※行徳地域でこのほかにおびしゃを行っている町がありましたら、この記事に追記させていただきたいと思いますので、ぜひコメント欄またはこちらからお知らせください。
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田中愛子 (金曜日, 08 3月 2024 09:17)
行徳地区のおびしゃについてこの様に細やかに取材して見事に纏め上げられて驚きと感動です。
正直言って他所の地区の神事に関心があっても、覗ける訳でも無く、各町内だけの行事だった様なのでこの調査、記録は行徳の民俗学としても大変重要な仕事だと思って感謝、感動です♪江口さんだからこそなしえた事です。本行徳三丁目で我が家が宿になった話少しいつか聞いてね!何しろ感動の記録です♪ありがとうございました。
わっしょい!行徳 (金曜日, 08 3月 2024 09:48)
愛子さん、いつもコメントありがとうございます。
わっしょいの活動から逸れ、少し民俗学的な記事となりましたが(実は高校から大学にかけて、少しだけ民俗学を学んだことがあります)、詳しいお話を伺える方がいるうちに記録に残しておくことも大切かと思い記事にまとめました。
愛子さんの家も宿になったんですね⁉
ということは、本行徳でもおびしゃは行われていたということですね。
記事に追記したいと思いますので、ぜひお話を聞かせてくださいね。